ビジョナリー対談能楽師 安田 登氏

Vol.03 能楽師 安田 登氏 能の所作を現代に生かす

舞台セットをほぼ使わないシンプルな舞台に、お囃子(楽器演奏)と能面と体ひとつで、情景や人の心の機微、亡霊・鬼・天狗といった目に見えないものを体現する『能』。
安田氏は本業の能楽師として人々を魅了するかたわら、呼吸法や論語読みなど多岐にわたる研究とその執筆、遊学塾「寺子屋」の主催など広く活動されています。思考や感情が、体の動きからコントロールできることを『能』の考え方からお聞きします。

能の呼吸とストレスマネジメント

岡田康子 クオレ・シー・キューブ(以下、岡田):
 先生のご著書『あわいの力』(ミシマ社、2013年)と出会い、能の世界に連綿と受け継がれてきた所作や呼吸法などを私たちの生活に生かせないか?と漠然と考えたことが、今回の対談の大きなきっかけです。本日は能の考え方を基に、感情と体のコントロール、呼吸法や発声、メンタルヘルスについて、企業でも生かせるお話がうかがえると楽しみにしております。 はじめに、先生のご経歴を教えてください。

安田 登氏 能楽師(以下、安田氏):
私はワキ方(かた)専門の能楽師です。ワキ方というのは、いわゆる演劇の世界で言うところの脇役ではありません。ワキ方が演じるのは、漂泊の旅人など人生で何らかの“欠落”を抱えて旅に出た人間です。着物の脇の縫い目を「ワキ」と言いますが、ワキは「横の部分」、前と後ろを「分ける」部分、前と後ろをつなぐ媒介を果たします。媒介の意味をもつ古い言葉が「あわい」や「間」です。シテ方が演じる主人公の亡霊が棲む“あっちの世界”と、人間界である“こっちの世界”を結ぶのがワキの役割なので、つまりワキは「あわい」の存在、媒介者ということができます。そこから連想すると、身体というのは「ワキ」であって、身体を通して外とつながっている。そう考えると、ワキ方(かた)にとってはまさに身体が道具なのです。身体という道具とどう付き合うか、それに習熟することでいろいろなものとつながり、楽になっていくのを実感しますが、これはワキ方にかぎらず、どんな人間にとっても同様だと思います。

岡田:
もう少し、詳しくお話しいただけますか?

安田氏:
現代に生きている以上、ストレスそのものは決してなくなりませんよね。ストレスをなくす、という発想は非現実的で不可能な話です。それよりも、ストレスとどう向き合い、どう対処するかが大事なことで、能のゆっくりと繰り返されるリズミカルで深い呼吸と発声時の瞬発性のある強い呼吸が、ストレス対処に有効だと考えています。とくに前者の呼吸は、ストレスを受けた時、興奮をコントロールすることによって集中力を高めると言われていて、つまり、ストレスの有効利用が可能になるのです。大事な点は、興奮が高ければ高いほどコントロールする力も必要なわけで、その分、集中力も高まる、というところです。

岡田:
確かに、ストレスによる緊張や不安は下げたいところですが、下手をすると集中力ややる気まで無くなってしまいます。そうではなくて、まさに私たちが求めるのはエネルギーレベルを保ったまま、緊張や不安を適切な状態にまで下げることですよね。

安田氏:
それがわれわれの目指す「メンタルタフネス」だと思います。歴史上の人物でお話しすると、織田信長は今川義元を討ちとった桶狭間の戦いの直前、『人間五十年』という舞を舞ったと言われています。今川義元の軍勢は10倍いて、絶対負けるだろうと信長の家老の何人かは信長を見限ってしまうんですね。負ければ確実に死が待っている、そんな状況の中で信長は舞ったのです。おそらく、信長はあらゆるストレスを跳ね返す自信があったのでしょう。先ほども言いましたように、ストレスが大きければ大きいほど跳ね返す力も大きくなるということです。圧倒されるほど大きな不安や恐怖を舞の力で克服し、戦闘のエネルギーに変換したのだと思いますね。

頭より身体を使う

岡田:
私も最近、人間関係を良好に保つには呼吸が大切なのでは、と感じています。問題があるな、と思う人を見ていて、どうしてうまくいかないのか考えていると、ずーっと息を吐きっぱなしだったり、返事をするときにフンフンと上っ面の呼吸をしていたり、話が十分に双方向で行き交っていると感じられないのです。深い、ゆったりとした呼吸をしていると、うまく伝わるのだろうと感じます。

だいたい最近、大きな声を出す環境ってあまりないかもしれません。今の職場はシーンとしていて会話がない。PCにかじりついているし、勤務時間もバラバラだったりすると、挨拶すらしないこともあります。それに、オフィス内に自然のものが少ない、たとえば、木や緑など。これは深い呼吸をするにも良い環境ではないし、表現しないまま自分の中で抱え込んでいる人が多いですね。

安田氏:
社員が互いに顔を見て話さないのは、企業にとって危ない環境ですね。昔から、ものを作っている会社は会話、雑談が多いです。短期的な結果、儲かる、儲からないを求める仕事に携わっていると、会話が弾まない傾向があります。効率が悪くなるという理由で、無駄な会話がなくなってしまう。

岡田:
それぞれが別々に頭で考えているだけでは、空気も停留してしまうし、自分の中に取り込まれるものがあっても入ってこないでしょうね。

安田氏:
極端な例で言うと、引きこもりの子どもにその問題が起きています。彼らの場合、頭が中心になっている。何かする前に、まず頭で考えてしまうんですね。何をさておいても体を動かすことによって、さまざまな変化が起きてきます。多くの子は自然をあまり見ていなくて、たとえばお日様や草木はただそこにある、というだけです。そういう子たちが一度歩くと、引き込もりを止める。彼らにとっては、外へ出て歩くということがとても大事です。

岡田:
それと関係があるかどうか分かりませんが、取り止めていた企業の運動会や社員旅行を、また復活しようとする動きがありますね。皆で一緒に自然に触れて体を動かすことによって何かを変えよう、としているんだと思います。この間、自然の中で社員研修をした折、ブラインド・ウォーク※ をやってもらったんですが、皆、一様にただただ歩いて時間内に帰ってくるんです。歩くことが作業みたいで、プロセスを楽しんでいないのがとても気になりました。自然と一体になって楽しむ、ということを忘れているんです。

安田氏:
私もブラインド・ウォークをやらせることがあります。20年前と今とで大きく違っているのは、個々人に求められる対応能力。昔はマニュアルを作れば何とかなりました。ところが、今は状況の変化が非常に大きいので、個人がどこまで対応できるか、がとても重要になってきています。ブラインド・ウォークをさせて、ただ行って帰ってくるだけでは対話ができない。対話をするためには、自分の身体能力を高めることと、目の前にいる人の要望をちゃんと知ることがとても大事なんですよね。

※ ブラインド・ウォーク
二人一組となって一人が手ぬぐいで目隠しをして、もう一人が案内役となって言葉をいっさい交わさず散策するオリエンテーションの一種。
目的は、①日常用いている五感のうち視覚を遮断することによって、視覚以外の感覚をフルに働かせ、周囲のさまざまな情報を“感じとる”体験、および②視覚を遮断されたパートナーに言葉を使わず情報を伝達し、情報を受けとり、試行錯誤を通して伝達方法に工夫を凝らす体験、を味わうことである。 その結果、サポートする側、される側の感じる不安・恐怖などを言葉ではない体験として共有し、信頼関係へつなげることができる。

直観力を鍛える

岡田:
今の世の中、不確実なこと、突発的なことが非常に増してきていますね。対応力を身につけることは不可欠で、直観力というのも重要だと思います。自分の体で感じる“実存”と言ったら良いでしょうか。どこか外から学んできたものをそのまま取り込んで頼りにするのは不安だし、危険なことかもしれませんね。

安田氏:
直観を鍛えることも大切です。すごく簡単な訓練なのですが、朝、家を出る時に目に付いた物を持って出る練習。たとえば、傘が目に付いたとします。別に天気予報で雨の予報はなくても、傘を持って家を出る、そうすると自分の直観と現実に起こることとの関係が見えてきて、直観力を磨くことができます。自分の気持ちが動いたこと、動いた方向を無視せずに、直観を大事にすることって、日常、意識しないとなかなかやれないんです。最初は現実と直観が一致しないけれども、だんだん当たるようになってくるから不思議です。

私がやっている仕事の一つに、「この人を入社させても良いか、迷っている人の面接」があります(笑)。簡単に言っちゃうと、最終的にとても能力がありそうだけれども、問題もありそう、という人の面接です。これは、もう、直観以外の何ものでもないんです。

岡田:
私も、人に関わるカウンセリングやコンサルティングをする時、ここ、という気になったところに焦点を当てて、そこを掘り下げていくことがあります。たとえば、ロール・プレイをするタイミングや何を取り上げるか、などですが、これは直観的なことかもしれないですね。

安田氏:
マニュアル化はできませんよ。

岡田:
頭デッカチの人が多いということで言うと、外部情報をちゃんととり入れていない人、五感を働かせていない人が多い気がしています。電車の中でヘッドフォンでガンガン音楽を聞いている人がいますけれども、周囲から遮断されて自分の世界に引きこもっている状態ではないでしょうか。以前ワークショップで数週間、自然の中で生活していて東京へ帰ってきたら、もう、街中の音がすごくて、体の中に突き刺さってくるような感じでした。目にする看板の色彩も派手すぎて…。自然の中にいる間に、自分の五感がすっかり開いた状態になっていたのだと思うんです。東京にいるかぎり、感覚を遮断しないと生きていけないと感じましたね。ときには五感を開いて、自分も自然の中の一部である、ということを体感することが大切だと思います。そうすることで、自分の存在への自信が生まれていくのではないかと。

トップは空洞の状態に

岡田:
最後にトップの“ありよう”について示唆をいただけますでしょうか?

安田氏:
最初のワキの話に戻りますと、ワキは人生を捨てた人間だから空洞の人なんです。ここにある容器にいっぱいものが入っていたら、もうそれ以上は入りません。空洞だからこそ入る。管理職の人たちが空洞を目指すのはちょっと問題かもしれないが、明らかに企業のトップは空洞でなければならないと思います。空洞の人がトップにいると、周りは動きやすくて人材が育ちます。トップは専門的なこと、細かいことは知らない方が良いんです。

岡田:
なまじ知っていると、つい口を出すことになって下をつぶしてしまうでしょうね。今、企業では管理職が部下と知識量や技術レベルについて「どっちができるか争い」をしているところもあります。管理だけしていればいい管理職はほとんどいません。プレイングマネージャーは空洞じゃなくていっぱい詰めておかなきゃいけないし、自分もノルマを達成しなきゃいけない。今の世の中、「いっぱい、いっぱい」で、そこら中にこぼして歩いている人が多いですね。要求水準が高くなって、競争が激しくなっているからだと思います。

安田氏:
20年くらい前に中小企業診断士の資格を取りましたが、その頃はトップの競争猶予期間は10年くらいでした。今は結果が出なければ1年で首を切られると聞いてびっくりしました。

岡田:
IT系の商品を筆頭に、短期間で勝負するものが増えてきています。良いものを研究開発して作っても、すぐに真似されてしまうし…。業界を超えて競争が起きているので、ピリピリして皆とても疲れていると感じます。

安田氏:
私も本の原稿を3つ抱え、九州、北海道、と飛び回っていますが、不思議なことに疲れないんです。それは、やらされているのではなく、自分が自ら望んでやっているからでしょう。自分でやる覚悟があるから自由なのかもしれませんね。

岡田:
実に奥の深い、自在なお話の展開に時の経つのを忘れてしまいました。長い時間を経て能が現代に生き続けている理由の一端が見えた気がします。どうもありがとうございました。

(2014年10月)

安田 登(能楽師)

本職である能のワキ役としての活動のかたわら、呼吸法、論語読み、甲骨文字解読、俳句など研究し、これらに関する著書多数(『身体能力を高める和の所作』ちくま文庫、『あわいの力』ミシマ社、『本当はこんなに面白い 奥の細道』じっぴコンパクト新書、他)。興味のおもむくままに活動の枠を広げる中で、広尾ほか全国各地で遊学塾「寺子屋」(自由参加で面白いことをやってみる会)を主催したり、引きこもりの人たちと一緒に俳句を詠みながら“奥の細道”を歩いたり…と、領域を広げている。

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