ビジョナリー対談妙心寺 退蔵院 副住職 松山 大耕氏

Vol.14 神田神社 宮司

今回のビジョナリー対談では、弊社代表・岡田康子が、妙心寺 退蔵院 副住職 松山大耕様と『禅に学ぶ不安のマネジメント』と題して対談をさせていただきました。対談の動画は4部構成です。松山様には禅の修行を通して培われたレジリエントなありかたをお話しいただき、VUCA時代・不安な時代を生きるヒントもたくさんいただきました。ぜひ、これからの職場づくりにお役立ていただければと思います。

第1部

岡田康子 クオレ・シー・キューブ(以下、岡田):
私どもは、企業向けのハラスメント対策をやっていますが、今、ハラスメントをする人も、される人も非常に不安の中にいて、ますますハラスメントがエスカレートして、お互いに理解できないまま、先行きの不安の中に、皆さんいます。

そのような中、「不安をいかにマネジメントしていくか」「どうやってタフな人材になっていくか」が求められています。

また、私たちを取り巻く環境において、AI化・バーチャル化が進む中で、私たちの仕事はどんどん置き換わっていくだろうと思うのですが、その中で私たちは人間として、どうあったらいいのか、まさに問われていると思うので、そのあたりのお話をお伺いできればと思います。

不安の時代をどう生きるか

松山氏:
VUCAという先が見えない時代は、不確実性が高まっていると言われますが、不確実性は昔から高かったと思います。今は情報化社会で、非常に情報が早く、大量に出回ってくるから、そう思うだけのことで。パンデミックや地震、自然災害、戦争など、時代にかかわらずこれまでも起こっています。

ただ、そういった中で不安が増幅しているというのは、実際そうだと思います。

以前、京都大学の前総長・山極寿一先生(ゴリラの専門家の先生)と対談をさせてもらいました。そこで、このAI時代において、そもそも人間とは何かという話になりましたところ、山極先生いわく、「人間の定義は宗教を持つことだ」とおっしゃったんです。つまりは、「すべての生物の中で、ただ唯一人間だけが、自分が死ぬことを知っている。」と。

人間、いずれ死ぬことがわかると、逆算するんです。あと何年生きなきゃいけないのか、何年残っているのか。そこに不安が生まれるんですね。その不安を少なくするのが、この宗教の役割であると山極先生がお話しくださりました。

お釈迦様は、「生老病死」という「四苦」とおっしゃった。これは、生きること、老いること、病にかかること、死ぬこと、です。「苦」という漢字の意味は、「苦しい」ではなく、思うようにならないということなんです。生きること、老いること、病にかかること、死ぬこと、これらは思い通りにならない。だから苦しいんです。

この思い通りにならないという感情、これは人間の性、どうやってもなくならないものです。でも、それを軽くするには「どれだけ修行しても、どれだけ頑張っても不安はなくならない。思い通りにならないことはずーっと一生思い通りにならない」そういうものだとまず、自覚しなければなりません。

私の師匠は7年前に膵臓がんで亡くなられました。その師匠の、修行道場の師匠であった方が、(その方も最近亡くなられたんですけれども、私の師匠が亡くなられた時はまだご存命で)「禅僧はがんで亡くなるのがいい」とおっしゃったんです。世の中には思い通りにならないこと、苦しいことがいっぱいあって、がんなどはその典型だと。そうやって自分自身がもがき苦しんでいる姿を見せることが、世の中の皆さんに対する一番の布教になるんだと。パワフルなことをおっしゃりました。

コントロールしようとする現代社会

松山氏:
今、地球温暖化、CO2の問題がありますね。ここで最近思うのは根本的な思想として「頑張れば、人間が、地球であるとか、環境をコントロールできる」という、非常に欧米的な発想があると思うんです。

確かに、化石燃料は使えばなくなるし、産業革命以降の温暖化に関しては、CO2が一番の要因でしょう。そこに異論はないんですけども、でも、その枠組みの大前提としてそもそも「地球も宇宙もそのまんま」ということがあろうと思うんです。

例えば、いきなり大噴火があったり、突然、縄文時代みたいに太陽が活発になって、全然寒くならなかったりするかもしれないですよね。そういったところから、私たち、日本人には「(地球、宇宙は)コントロールできないよな」という発想は、どこかにあると思うんです。

今、レジリエンスという言葉が盛んに使われていますが、日本語にすると「しなやかな」とか「何とかする力」とかだと思うんですけど、それが大事だと言われながら、ものすごい欠落している社会になっていると思います。

今、社会が向かっているのは、例えばAIやアルゴリズムを用いて、近未来や遠い未来をシミュレーションして、予測し、情報を先に手に入れて、ビジネスを当てようというようなことです。

しかしながら、いわゆるVUCAは常に存在しており、全く予想できないことがジャンジャカ起きます。みんな「次はこうなる」と予想しようとしているのに、見立てを頼り過ぎていて、実際に起こることとのギャップ、乖離についていけない。そこに不安や大きな怒り、戸惑いが増幅している。私はそこが現代の特徴ではないかと思います。

第2部

悟りとは、真剣な鬼ごっこ

松山氏:
ある仏教学者の方が「悟り」というのは体験だから言葉で表現できないが、あえて「悟り」を言葉にするならば「子供が真剣に鬼ごっこする感じ」と書いておられたんです。

これは的を得た表現だと思います。例えば、悟りを得た素晴らしい老師様は、世の中は諸行無常だとわかっている。諸法無我ということも、空ということもわかっている。なのに、このかりそめの世の中、意味がないから、死んじゃおうか、とはならない。

それはわかっているんだけども、その上でかりそめの中を真剣に生きるわけです。子供は、鬼ごっこだからといって手を抜かない。真剣に遊ぶ。でも、所詮、鬼ごっこなんです。

求められるレジリエンス

先ほどの、温暖化や環境問題の対策も、真剣にやればいいと思うんです。徹底的にやればいい。でも、心のどこかで、とはいえ人間は、大自然、人知を超えた存在はコントロールできないよな…と思っておかないといけないと思うんです。

それが「レジリエンス」で、想定外の、人知が及ばないことが起きたときに、それを受け入れる一つの重要なステップなんです。

岡田:
ビジネスの現場では、ハラスメントの行為者などは、まさに思い通りにいかないことにイラついて…ということがあると思うのですが、彼らは、会社で決められた一つのルールの中で、本当に真剣にやっています。

松山氏:
余裕がないんですよね。それが絶対だと思っちゃっているわけです。やっぱりどこかに「たかが会社」、「たかが仕事」、それより重要なことあるでしょう?というのを持っておかないと。それしかないと勘違いしちゃうと思うんです。

岡田:
少し、悲しいなぁと思うんですけど、今の仕事、肩書きをその人から除いたときに、とっても不安になるんだと思うんです。人としての存在が問われる。そこが不安なのではないかと思います。

自分の居場所を持つことの大切さ

松山氏:
その対策として、居場所を幾つかつくっておくことが、心身ともに健康に寄与するんじゃないかと思います。

今、時代的にある意味、良くなっていると思うのは、副業とか、会社と家の往復だけじゃない、いろんな自分の仕事の幅の広げ方が推奨されていることです。それはすごく大事なことです。そうしないと、客観的に物を見れないし、もし会社が駄目になった時に居場所もなくなりますから。

岡田:
そういう意味でリモートワークや二拠点生活などはいい試みですね。

修行時代のお話

松山氏:
私は、このお寺の長男に生まれて、正直、お坊さんになるのは嫌でした。修行が厳しい、頭を剃らないといけない、古臭い、いろいろな理由はありましたけども、一番嫌だったのが、学校で「お前何で勉強してんねん。寺を継いだらええやん。勉強しても意味ない…」と言われたことでした。自分がいくら努力しても、自分の将来が決まっているというのが、すごく嫌で、「絶対坊さん以外の仕事をやってやろう」と思っていたんです。

大学は東大農学部に進みました。大学院の一年生の時に、たまたま長野県の飯山という街で、農家に半年間住み込みで研究する機会をいただいて、その時に思いつきで、この辺に妙心寺派のお寺はないかな?と探したら一軒だけありました。そこが将来の私の心の師匠になる、原井寛道和尚さんという方がお住まいになっていた正受庵というお寺なんです。

一般的には日本のお寺には檀家さんがいらっしゃって、法事やお葬式をしてお布施を頂戴する、もしくは退蔵院のように見学の方から拝観料をいただくという形が多いのですが、そのお寺は檀家さんが一軒もなく、観光もやっていない。托鉢だけで生活していました。当時、今から25年ぐらい前ですけども、「この平成の時代に、托鉢だけで生活している人がいるのか」と大変驚きました。そうして、だんだんとその和尚さんに興味を持っていったのです。

ある時にその和尚さんの、詩を書かれた方がいらっしゃって、寛道和尚さんが、雨の日も嵐の日も炎天下の日も雪の日も、毎日毎日托鉢をされる。その托鉢をされる声がこの町に響くとこの町に安心が広がる…そういうふうに書かれていたんです。

それを見たときに、自分の中で「パチン!」と来るものがあって、今までお坊さんて、法事、お葬式をしたりするのが仕事だと思っていたんですけど、これは違うなと。「安心を与える」というのがお坊さんの一番の仕事なんだと非常に納得がいきました。

第3部

お金もうけをするのは悪いことですか?

松山氏:
お金もうけをするのは悪いことですか?と質問されるのですが、私はそれは全く悪いと思ってないんです。

これだけ市場経済が発達し、競争社会において、そこで対価を得るということはそれだけ皆さんから評価されているということですよね。ただ、問題は、儲け方と使い道だと思うんです。

例えばお寺で、檀家さんがいらっしゃって、お墓をお預かりしているわけですけれど、お金が足りないからと檀家さんの足元を見て、墓地管理料を10倍とかにして…これは駄目だと思うんです。しかも使い道が、自分の私利私欲のため…これは論外です。ちゃんと正当な評価を得て未来のために投資をしていくということに関しては全く問題ないし、それが非常に重要な社会的役割だと思っています。

「Z世代」の不安

私は、仕事において重要なのは、「喜ばれることに喜びを」という精神だと思います。

しかし、今の「Z世代」と呼ばれる若い子たちは社会に出たものの、自分のやっていることが、どう社会に役立っているか、どう喜ばれているのかというのが全く伝わってこなくて、「やる意味があるのだろうか」「何のために仕事しているのだろうか」と思っている人が多いように思います。「役に立つ」とか「社会的貢献」を重視する世代でありながら、それが全然伝わってこない。そこに苛立ちを持っている子たちがたくさんいると思うんです。

「心理的な安全」という意味で言うと、「喜ばれている」、「君たちが非常に必要とされている」ということをわかってもらえるような社会的仕組みを作り、それをちゃんと伝えることが、私は非常に重要だと思います。

日常で禅的姿勢を身に着けるには

岡田:
日常の中で禅的な姿勢を身につけていく、ちょっとした行動のヒントがあったら…

松山氏:
いろいろありますが、呼吸、息ってすごく大事で、「息」を漢字で書くと「自分の心」と書きますけど、ここに反映されるのが、深い呼吸とよい姿勢です。これだけでも世の中、変わってくると思います。

あとは、「動く禅」を私は重視していて、これは掃除です。掃除はすごく重要な頭の整理をする時間なんです。今はそういうものをアウトソーシングしてますけど、掃除を日常生活に取り入れていくと、頭の整理、そして心身ともに整ってきて、大分生活も変わってくるんじゃないかと思います。

禅の修行のすばらしさ

松山氏:
禅の修行ってすごいなと思うのは、型は決まってるんですけど、常に改善を求められるんです。あえて理不尽な要求を修行の中で組み込むとか、全員失敗させるとか、そういう体験が、自分たちをより自由にしてくれる。本当にしなやかにレジリエントな人生を送らせてもらえる知恵があると思います。

岡田:
禅問答というのは、答えは自分の中にしかないということなんですか?

松山氏:
いえ、答えはあるんです。論理的でも、科学的でもないかもしれないですが、禅的な答えは、唯一無二にあります。

人間は、知識も、経験もつくけれども、それが、色眼鏡のような「思考のくせ」になって、どうしてもそうとしか見えなくなってくるんです。そういうものを取っていくのが禅問答だと思います。

禅問答は「真剣勝負」

岡田:
禅問答を普段の生活には取り入れられないものでしょうか…

松山氏:
それは…ちょっと難しいと思います。というのも、「挨拶」っていう言葉がありますね。「挨拶」というのは、問答の、老師と弟子の一対一の真剣勝負。死ぬ気の勝負のことを言うんです。

禅問答というのは、そのように生きるか死ぬかの真剣勝負をやって初めて身についてくるものだと思います。

岡田:
バーチャルになった中で、人と人がぶつかるとか、気迫みたいなものを感じたりする機会は減ってきています。「禅問答」とまで言わないにしても、もしかしたら意図的に人と人とがちゃんと向かい合う時間をつくらなければいけないのかもしれないですね。

松山氏:
以前にもまして、必要かもしれないですね。 精神的な真剣勝負ですね。

第4部

禅画の解説「富士、不二、不盡」

松山氏:
この絵は、静岡県三島市にある龍澤寺という専門道場の後藤榮山老師が描かれました。御年92、3才 です。禅画が欧米の宗教画と決定的に違うのは「賛」(文字)です。絵と文字の両方で考えさせるものなんです。

ここに描かれているのは富士山ですが、この二つ目にあるのは、私が、最も重要なお釈迦様の教えだと思っている「不二」。「二つにあらず」「二元論を超えなさい」という教えです。「あの人はいい人だ、悪い人だ」と言いますけど、自分自身を考えても、良い面もあれば悪い面もある。しかも常に変わっていきます。良い・悪い、白・黒という二者択一ではなく、「ものごとを一つとして見なさい」というのが「不二」です。

三つ目の「不盡」(ふじん)は、「尽きず」ということで、分かりやすく言うと「無」です。「無」とは、仏教では無尽蔵の「無」なんです。無一物中無尽蔵という言葉があるんですけど、そこから無尽、不盡、尽きないということを示しています。

お能は、昔から禅とは密接な関係にあって、それは「無」とか「空」といった感覚に通ずるものがあるからではないかと思いますが、能面って、無表情に見えますよね。でも、あれは無表情じゃないんです。「喜怒哀楽」全部入れるとああなるんです。面の角度で感情を表現するわけですが、全部あるから無表情に見えるのです。

他の例で、光があります。光って、無色です。でもプリズムを通すと七色で、全部入っているから見えない、透明。そういう感覚が、無尽(尽きず)ということで、全部あるから尽きないという、このような仏教的な意味がこの絵にはあるんです。

富士山が描かれているのだけれども、ここには、「物事を二つに見るな」とか、「何もないところにすべてある」とか、 そういう非常に深い意味が隠されております。

(2022年4月 京都・妙心寺 退蔵院にて)

松山 大耕 氏
臨済宗 大本山妙心寺 退蔵院 副住職

1978年京都市生まれ。2003年東京大学大学院農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2007年より退蔵院副住職。外国人に禅体験を紹介するツアーを企画するなど、新しい試みに取り組む。外国人記者クラブや各国大使館で多数講演を行うなど、日本文化の発信・交流が高く評価され、2009年5月、政府観光庁Visit Japan大使に任命される。また、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。2016年日経ビジネス誌「次代を創る100人」に選出される。2011年には、日本の禅宗を代表しヴァチカンにて前ローマ教皇に謁見、2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。2014年世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界を股にかけ、宗教の垣根を越えて活動中。

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